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| 龍馬と福井藩の関係は、文久2(1862)年12月5日に間崎哲馬、近藤長次郎とともに幕府の政事総裁であった福井藩主松平春嶽に面会したことからはじまりました。幕末におけるその関係と様々な人物像をパネルで紹介します。 |
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我に才略無く 我に奇無し。常に衆言を聴きて
宜しきところに従ふ
幕末四賢侯の一人。徳川御三卿田安家の三代斉匡の八男として生まれた。その優れた先見性で、横井小楠や橋本左内・三岡八郎など有能な人材を登用、洋の東西を問わない学問の奨励、貿易を中心とした経済政策により藩政改革に取組み成功させ、後に慶喜とともに幕政改革に着手した。
<龍馬と春嶽>
龍馬と江戸で出会った春嶽は、勝海舟や横井小楠を龍馬に紹介したといわれている。文久3(1863)年、龍馬は勝の命を受けて神戸の海軍操練所に併設する海軍塾建設の資金調達のために福井を訪れた。その結果、幕府から調達した海軍操練所の年間費用(3千両)を上回る5千両を融通したといわれている。 |
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民富めば
国富む
嘉永4(1851)年、政治顧問として福井へ赴いた横井小楠の経世済民思想に共鳴、小楠に師事して実学主義を身につけ、藩財政再建を志した。その財政的手腕を龍馬に高く評価されたことが、新政府への登用につながり、維新後太政官札の発行を建議して実現させるなどその才を遺憾なく発揮した。「五箇条の御誓文」の草案起草者としても知られる。
<龍馬と公正>
龍馬とは2度会っている。2度目は慶応3(1867)年11月に旅館「莨屋(たばこや)」で議論を交わしている。龍馬は「天下の事成就せり(大政奉還が決定した)」と告げ、新政府の財政担当を公正に頼んでいる。
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一大共有の海局
蘭学・兵学に優れ、蕃所翻訳係・海軍伝習生監督となり、日米修好通商条約批准の際には咸臨丸の艦長として太平洋を横断。帰国後に軍艦奉行並に抜擢される。近代的海軍の養成のため、神戸海軍操練所を建設、広く人材を育てた。江戸城無血開城に貢献し、維新後には海軍卿、枢密顧問官等に任ぜられた。
<龍馬と海舟>
海舟は、龍馬に海外・近代国家へ目を向けさせ、活躍の場を提供した恩師といえる。龍馬は勝海舟の信任を受けて海軍塾の塾頭として指導にあたり、海軍塾閉鎖の際にも、勝海舟の紹介で薩摩藩の庇護を受けることができた。 |
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| 松平春嶽と山内容堂は肝胆相照らす間柄であり、幕末四賢侯として大政奉還に尽力しました。福井藩と土佐藩の関係を幕末の時代背景を通してパネルで紹介します。 |
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鯨海酔侯 南海の大守
第15代土佐藩主。吉田東洋とともに組織改革・人材登用・大砲鋳造・海防強化など藩政改革を進めた。土佐勤王党を弾圧し、公武合体論を推進したが、幕府の衰運はいかんともしがたく、後藤象二郎の勧告に従い、将軍慶喜に大政奉還を建白した。 |
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| 開館1周年を迎えた当館は、2004年3月21日に福井市立郷土歴史博物館と姉妹友好館提携を結んでいます。 |
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| 『龍馬の生まれ育った上町の魅力を伝えたい…』第四小学校の児童がそういった思いから自分達で取材を実施し、DVDを作成しました。また、そのDVDを福井市長に寄贈するなど交流の輪を広げています。 |
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