とおりちょう
城下町がつくられたときは武家屋敷があったが、後に武家に召使われる中間などが住むようになり、その人たちの通称から、「御小人町」と呼ばれていました。慶安2年(1649)の野中兼山による町割で、まっすぐな一筋の通りになったため、通町と改められました。





みなみほうこうにんまち
江戸時代、足軽や奉公人が多く住んでいたことに由来し、この町名が付きました。もとは内町といわれており、慶安2年(1649)に野中兼山により町割が行われ、南奉公人町と改められました。

つきやしき
もともとは、城下を守る鏡川大堤の外側河川敷の竹やぶで、前に広い河原があったことから、宝永元年(1704)に町民が藩の許可を得て、自力で石垣を築き屋敷地にしました。「築屋敷」という名はここから来ています。後に、石築が延長され、職人も多く住むようになりました。
『高知城下 町名今昔』 参照