「あなた、その色を着てるととっても素敵に見えるわ。本当に素敵よ。」
レジで清算をすませ、歩き出した途端、こう声をかけられてしまった。相手は見ず知らずの女性だ。満面の笑みとその言葉に、こちらのほうがたじろいでしまう。でも、誉められることは悪いことではない。ちょっとぎこちなく微笑みながら、「ありがとう」と返してみる。
人間、誰でも誉められるのは嬉しいものだ。でもだいたい日本に住んでいたときには、誉めてくれる人は知り合いの人でしかなかった。面識のない人に誉められることは、あまりなかった。
アメリカで暮らしていると、食材の買い物に出かけた先で、面識のない人からいきなり誉められることが多い。それは子供のことであったり、私自身のことであったりするのだが、悪い気はしないものである。
誉められるということは、自分を好きになったり、自信を持つことに繋がっている。たとえば、息子が英語を習っていた先生は、どんなときにもけなすことはなく、根気良く教えてくださった。こういう人との接し方や教え方を目の当たりにすると、今までの自分のやり方を反省してしまう。
日本は、どちらかというと誉めるよりも、注意をすることを柱として教育が行われていると思う。そして、心のどこかに、「できて当たり前」の意識があるのではないか。
小学校のころ、たまに満点をとって喜び勇み父に見せると、「満点はとって当たり前」と言われてしまった。確かに、子供が小学校のときに習う内容をきっちり理解して満点をとることは、親にしては当たり前だったのだと思う。父もそうやって教育を受けてきた。でも、私は、結果とともに、その満点を出した過程も誉めて欲しかったのだと思う。
アメリカ人の母親たちは、子供たちを誉めて育てているように思う。出来る事を誉め、出来たことを誉め、得意なことを誉めている。でも、子供たちは欠点がないわけではなく、それぞれの母親が悩みを持っていないわけではない。しかし、長所を見つけてはそれを誉めていこうとしているのだ。すぐに、子供の欠点を見つけては、「なになにしてはならない」型の小言を言ってしまう私とは、全然違う。結果を評価することもあるが、どれだけ努力したかに関して、より高く評価して誉めている。
本当にアメリカ人は、他人に対しても、家族に対しても、誉め上手だ。だから、子供たちは自信に満ちた顔をしている。そういう顔を見るたびに、私は自分の子供たちに悪いことをしたような気持ちになってしまう。
ただ、一つだけ、誉め上手で作られた自信には落とし穴がある。けなされたり否定されたりしたことのない人は、自信を持っているかぎりはとても強いが、何かの弾みで自信をなくしてしまうと、とても脆い。だから、自信を失ってしまった人たちが、セラピストや精神科に通うようになる。友人のセラピストは、もう顧客をこれ以上増やさないように事務所に言うほど、繁盛していると言っていた。
なんでも、中庸がいいのだろうが、未だに私にはそれがどういうことなのかわからずじまいでいる。
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