院長"自己"紹介です。


出身は高知県・佐川
 田村家は江戸時代、土佐藩の郷士をしていました。明治になり封碌停止。もらった一時金で企業をおこしましたが、いわゆる"士族の商売"で倒産、猟銃自殺をしたのが私の父の祖父。墓だけ残して大阪に引っ越ししたのが私の祖父でした。その祖父は父が高校生の時に死亡したため、私は直接は知りません。
 私の父は師範学校から教師になりましたが、すぐ召集。本籍地は高知のままだったので、高知・朝倉の練兵場で徴兵検査。父は学生時代体操をしていたぐらい力も体力もあったのですが、結核をしていた為、完全になおっていたにもかかわらず、甲種合格にならず、ビルマ等外地へ行かずにすみました。ちなみに高知空襲の時は高知市内の"警戒"をしていたそうです。

戦後生まれ
 1949年(昭和24年)8月、下山・三鷹・松川事件がおこり、世の中が騒然としていた時、私は"越知"で出生。ベビーブーム真っ盛りで、以後今に至るまで競争の連続です。
 借家を転々とし、家を建てたのが佐川で、入学したのも佐川小学校なので"佐川出身"と言っています。
 小学5年の時、同居していた祖母が死亡。教師共稼ぎの我が家は、勤評闘争の報復もあり、以後1年毎に転勤・転校することになります。

泉川小学校卒業
 小学6年で仁淀村・泉川小学校に転校。泉川小学校は"長者"(若い方は"長者"を知らない方も多いでしょうね)のまだ奥で、鳥形山のふもとになります。鳥形山はその当時、まだ石灰採掘はしておらず、忘れもしない11月23日(勤労感謝の日)、子供だけで頂上まで登って雪が降り出し、遭難しかかったことを覚えています。泉川小学校はだいぶ前に廃校になっています。
 中学は梼原中学入学。中学2年でさらにその奥の四万川中学に転校。四万川中学は四国カルストのふもとで、数ある四万十川支流のひとつです。遠足は愛媛県・野村町・天狗高原まで歩きでした。四万川中学も今は廃校です。
 小学6年から中学2年まで3年間の"山村留学"による学力低下をおそれた父は、土佐中3年への編入試験を受けさせましたが、不合格。中学3年で佐川中学に帰って来ました。高校は高知学芸高校に入学。町で、土佐高制服・そでの白線を見ると隠れるような、暗い高校時代でした。

徳島大学医学部卒業
 中学時代、大学の存在すら知らなかった私は、高校2年ごろからようやく大学を意識し始めました。反抗期もこのころが頂点で、親と暮らすことができず、高校までの通学距離が遠いことを理由に、修学旅行に行かないことを条件に、高校3年は高知・朝倉に合法的な家出(=下宿)しました。親への意地で、私が必死に勉強したのはこの1年間でした。
 学徒動員されても理科系は後、徴兵されても軍医は少し後方、医学部がだめでも教育学部、と考えて医学部に。家の経済状態から私学は無理、国公立で一番入りやすいところが徳島大学だったので、そこにしました。ちなみに当時授業料は月千円でした。
 69〜70年安保、日大・東大などを頂点とする全国学園闘争、日本赤軍ハイジャックなどが続いた時代。私は大学で、今でいう"不登校"になり、塾の先生、長距離運転手、エレベーター点検手伝いなどの仕事をしました。"医者が一番らくだ"との結論に達し、退学せず卒業。国家試験も運良く合格。"えらい"も"またい"もない、血を見ない、きれいな女の人が多い、小児科にしました。

香川小児病院で研修
 以後、徳島大学、小松島赤十字病院、香川小児病院で研修、高知県農協病院勤務を経て、1994年7月開業しました。特に香川小児病院での研修はNHKドラマ・ERの雰囲気で、みるたびに思い出します。新生児・乳幼児の運動発達に関しては小児病院で、漢方薬は農協病院で、母乳に関しては開業してから知りました。
 これからもよろしく、お願いします。